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第一回記者会見 2017年4月30日 於:四代目真鍋組事務所

任侠団体山口組本部長:池田幸治(四代目真鍋組組長)

結成表明
本日付けを、持ちまして任侠団体山口組、結成致します。代表、織田絆誠。不肖、私、本部預かります、池田幸治です。宜しく御願い致します。
一昨年八月二十七日、神戸山口組の大義に感銘を受け、我々若手・中堅は、日本全国でその大義を信じて、汗を流させて頂きましたが、残念ながら大義とは名ばかりの一部の上層部の恨み辛み私利私欲であったという事実を目の当たりにしてしまいました。
『本来の山口組に戻す為、山口組を正す為、そして我々年寄りはどうなっても良いんだと、若い者が未来・将来の為、立ち上がるので付いて来て欲しい。』と言う言葉に感動し、この一年数か月、我々なりに頑張って参りました。振り返りますと、誠に持って残念の極みであります。
任侠団体山口組は、神戸山口組が実行しなかった大義を本日より実行し、尚且つ山口組中興の祖である、三代目田岡一雄親分の意に沿う親睦団体にして参ります。山口組綱領にある国家社会の興隆に貢献せん事を期す第一に、任侠の原点に返り、日々精進したく存じます。
まず名古屋方式を否定して立ち上がった神戸山口組であります。その名古屋方式の悪政は数々あれど、大きく分けると、第一に金銭の吸い上げ、第二に当代の出身母体の贔屓、第三に当代が進言諌言を一切聞かない、これでは山口組が自滅の道を辿ると真っ向から否定して立ち上がったにも関わらず、神戸山口組の現実はその名古屋方式にも劣るそれ以下の悪政でした。
一年数ヶ月間続けられた悪政の数々の中で、四名の大御所の方々が、心折れながらも、分裂によって若い者を巻き込んだ責任から、結成一年後、昨年の八月に三つの改革案を進言諌言したところ、
井上組長『あれもこれも言うなら組長は降りる。若頭、組長を代わってくれ』
と、言う理解しがたい耳を疑う暴言でした。
先程、申し上げた恨み辛みの話をさせて貰います、皆さん、記憶に残っていますよね。昨年九月の新神戸駅を思い出すだけでも恥ずかしい、さのサイン騒動。一家の若頭たる寺岡会長にも知らせず、入江副長、池田舎弟頭にも知らせず、山健組の織田副長・伏見若頭・生島舎弟頭・與本部長にも知らせず、こそっと健竜会中田若頭代行のみを呼び、指令指示し、あの恥ずかしい騒動が起こった訳であります。
仮に、この度の分裂が十年間の恨み辛みを晴らす事が目的であるとするならば、このサイン騒動は正解でしょう。しかし、山口組を正す為、若い者の未来・将来の為に、立ち上がったと公言するならば、さのサイン騒動は我々の業界では絶対にあってはならん事なんです。
いつの日か、二つの山口組を一つにして、若い者の将来の為に山口組を正すと言う大きな目標を井上組長自ら潰してしまったのです。我々若手・中堅含め神戸の大義を信じて、頑張ってきた大勢の者が目標を失い、目の前が真っ暗になり正に絶望した瞬間でした。
先程お話しした改革案、三つの内の一つの中に、当時の織田若頭代行の山健組との兼任を外すという話が入っておりました。昨年、八月の時点で大御所四名の方々に、山健組から籍を外し、神戸山口組に専念する様に要望され、その時に、うちの代表は明確に承諾したにも関わらず、未だにはっきりと決めれずにズルズルと今日に至っている訳です。
それと一つ、織田代表と言う人物は、山健組の跡目がどうこうよりも、今苦しんでいる山健組の組員達をどう救うか、全国の神戸山口組一門の者をどう導くか、そこを一番に考える男なんです。
ここで、『任侠団体山口組』について少しお話させて頂きます。本来、我々の業界では盃を重んじ、忠誠を誓うと言うのが本筋ですが、昨年八月二十七日に、その盃の意味を崩壊させ、合わせて絶縁・破門状の重みも崩壊させたのが、神戸山口組であります。
この現状の中で我々は盃よりも、精神的な同志の絆に重きをおき、あえて盃事は一切執り行いません。又、組長はあえて空席とし、代表制と言う形を取りましたが、これは我々が当然の如く組長は織田代表がなるものと思い、皆で再三御願いに上がりましたが、代表のたっての強い意志の元、固辞され承諾は得られず組長は空席となりました。
これは従来のような我々の業界の在り方では、この新しい船が意図する本来の趣旨に反するのではないか? と、代表に問われ、本来我々の業界では下の若い者が上を支えるのが当然とされてきましたが、任侠団体山口組では、皆が平等で、共に支え合い、助け合えるような組織作りをしたいと切に請われ、やむなく、このような形を取る事と成りました事をここに報告させて頂きます。
又、人事・詳細については後日改めて発表させて頂きます。因みに、神戸山口組側の一部の者が、織田は人事に不満を持って出るだろうとか、金銭絡みがどうこうなどという印象操作を雑誌やネットを使い、一生懸命捏造していますが、真実は今お話しさせて頂いて通りです。
一昨年、八月二十七日に公言した、神戸山口組の大義を嘘で終わらせず誠にする為、立ち上がったのです。真の山口組、真の任侠団体を作り上げる為である事をお伝えしておきます。
それでは先程、お話ししました神戸山口組の今までの現実を、お話しさせて頂きます。第一に金銭の吸い上げについて、山健組サイドからありのままをどうぞ。

任侠団体山口組本部長補佐:久保真一(山健同志会会長)

まず遡って、一昨年8月27日の結成日翌日、8月28日に山健会館4階大広間にて、当時100名以上の山健組直参が集合した席上の、4代目井上組長の発言内容から説明させていただきます。
まず、名古屋方式の悪政の数々、なかでも多額の会費徴収、プラス日用品や雑貨などあの手この手の吸い上げ、組員の顔を見れば金金金という執行部の姿勢、篠原の現状を長々と説明したあとの言葉が、不本意ながら山健組のみなさんには金の苦労をさせざるを得なかったのだ。
これからは山健組のみなさんにはそういった無駄なお金の苦労をしてもらわなくてもよい、会費も下げられるとそういったにも関わらず、分裂以降蓋をあけてみたら、一向に金銭の吸い上げが止まず、会費と年8回の臨時徴収、さらに登録組員1名につき、1万円を徴収するという名古屋方式の上をゆくような、お金の吸い上げをその後も続けており、多額の使途不明金の詳細もわからないまま、山健組組員においては、財産すべてを持っていかれるような思いを持ち続けていた次第です。
あの8月28日にみなに頭を下げ、みなさん、もう少し私にヤクザをさせてくださいと号泣しながらの所作はなんだったのか、今となっては頭をかしげる次第です。後をお願いします。

任侠団体山口組本部長補佐:金澤成樹(山健連合会会長)

4代目山健組は一昨年の8月27日、名古屋弘道会を非難し、大義をかざし、神戸山口組を立ち上げたわけですが、現在神戸山口組の主要組織である4代目山健組の運営の中身は、弘道会を非難したことと同じようなことをしているのです。
そのほんの一例を挙げさせてもらえば、本年1月31日、名古屋で自決した、山健組中京ブロック長、藤森若頭補佐のことは皆さんのご記憶にも新しいことと思います。藤森ブロック長がなにゆえ自ら命を絶つようなことになったのかを、ご説明します。
昨年9月、藤森ブロック長は分裂以降、名古屋という土地柄もあり、組合のシノギがほぼ出来なくなったということもあり、経済的に行き詰まり、会費を滞納するという状況になっていました。そして、それを払える目処もない中で、意を決して、山健組本部にあがり、その窮状を訴え、役を降りさせてほしいと、松藤組跡目の高倉の兄弟と一緒に、お願いに行ったそうです。
そのとき対応したのは伏見若頭、與本部長、中田若頭代行の3人だったそうです。そして、その3人と藤森ブロック長との4人で約2時間ほど話し合いをしたのち、別室で待たされていた高倉の兄弟が呼ばれ、その3役から、藤森の会費滞納額が150万ほどある。高倉、先代が困っとるんやから、なんとか助けてやれんのかと言われたそうです。
高倉の兄弟は先代を助けたいのは山々なんですが、今の私にはその余裕はありません。なんとかしてくれと言われるのなら、事務所を処分して、お金を作るくらいしかないんですと返答したそうです。すると、伏見若頭が事務所は山健組の出城やから、売ることは出来んやろと言ったのち、驚くことに事務所を担保に金を作れんのかと言ったそうです。
高倉兄弟は、わかりました、借りれるかどうか頑張ってみますとしか言えず、そののち、藤森ブロック長と名古屋にもどり、数日かけて走り回り、金を出してくれる人を探したそうです。しかし、今のご時世、ヤクザの事務所を担保に金を貸してくれるような人は中々見つからず、伏見若頭に連絡をいれ、貸してくれそうなとこを探しましたが、どこも貸してくれませんでしたと報告したそうです。
すると、伏見若頭は中田の代行が担保で金を出してくれるところを知ってるそうやから、こっちで動いてもええなといい、中田代行の若衆である名古屋在住の健竜会中山氏という男から、高倉兄弟に連絡が入り、事務所担保の融資をするための作業に入ったそうです。
そして、中田代行が言ってきた条件が、一千万以上の評価がある物件にかかわらず、五百万なら出せると先方が言っているとそれでもいいかと聞いてきたそうです。藤森ブロック長、高倉兄弟にしてみたら、会費の未納、200万近くを払えと言われ、無理だとギブアップしている状態で、その2人に選択の余地もあるわけなく、お願いしますとなったそうです。
しかもその後、金利が付くんですが、三分でいいですかと言ってきたそうで、当然言えるはずもなく、お願いしますとなったそうです。しかし毎月15万円の金利を藤森ブロック長はもちろん、高倉兄弟も払うことが出来なかったため、その旨を伝えると、それなら金利は三年間据え置きで、三年後に元金と金利三年分を一括して払って下さい、そのかわり抵当権ではなく所有権を変えてもらいますと言って、去年の11月28日に松藤組事務所の所有権が、高倉兄弟の名義から、健竜会中田代行の若衆の名義に代わっているのです。
これが同じ身内、仲間のやることですか。分裂以降、敵地名古屋で命がけで頑張っている者から、会費をとるというのも、酷なことですが、それを滞納したからといって、事務所をカタに抑えますか。誰が聞いてもこれは仲間のすることじゃないと言います。山健組執行部三役揃いも揃って、こんなことを進めて親分がそれを知らないと思いますか。こんなことをしておきながら報告をしていないことなどあり得ないです。
自分で戦争をしかけて、最前線で戦っている兵隊から、兵糧も武器も取るようなことではないですか。普段から団結が大事や、和が大事や、助け合いやと言っているのは口だけなんです、嘘なんです。山健組の組員全員が、親分が金を持っていないとは思っていないでしょう、お金があるのに助けてやらないんです。
私は高倉の兄弟にひょっとしてと思い、藤森ブロック長が亡くなったとき、本部から香典が出たかと聞いたんです。出てないと言ってました、自殺なら出ないと、これが山健組の実状です。敵地の中で戦わせておきながら、搾り取るだけ搾り取り、残った唯一の財産まで取り、己が死に追い込んでいるのにそしらぬ顔をし、自殺だからという理由をつけて香典すら出そうとしない。
香典で私がひょっとしたらと思って高倉の兄弟に聞いたのが、昨年10月に亡くなった和歌山の紀州連合松下兄弟のときも、香典を遺族に渡してやってないからです。当時わたしは南ブロック長代理をしていましたので、葬儀が終わって、伏見頭に会計報告をし、会計責任者の中田代行と私の3人で親分に報告にあがったんです。
そのとき親分は松下の嫁は松下が懲役にいってる時に籍を抜いとるんやろ、嫁の評判もようないし、そんな嫁に金を渡したら飲み食いして子供のために金使わんのちゃうか、と言い出したんです。
その後、われわれ3人は親分の部屋から退出し、いったん頭の部屋に戻ったんですが、そのとき中田代行は親分がああ言っていたので、渡し方考えるので、いったん残りのお金を預かっておきますといったので、私は香典の残金約200万ほどを中田の代行に渡したのですが、その後それを遺族に渡してやることは無かったのです。以上です。
第二に当代の出身母体の贔屓について、これは古川組サイドから、どうぞ。

任侠団体山口組本部長補佐:山崎博司(三代目古川組組長)

古川組としましては、当代の出身母体の贔屓について、お話したいと思います。うちの組が神戸山口組に移籍して、すぐの昨年3月に山健組のとある組織の若い者と、うちの組の枝の若い者が揉め、うちの者が重傷を負わされる事件があったんです。
この事件はうちの者は一方的にやられているのにもかかわらず、相手が当代の出身母体の山健組ということもあり、こちらとしては最善の気遣いをし、神戸山口組内の揉め事であるから、六代目体制とまったくちがう裁きをしてくれると信じ、山健組の誠意にまかせたが、結果、神戸山口組がうたう当代の出身母体の贔屓をしないとは程遠い、真逆の結果となり、断腸の思いで不本意な結果を受け入れたんです。
うちとしては、この1件で組として大変寂しい思いをしたんです。不本意な裁定とはどのようなものか、詳細をうちの頭の方から説明させます。

任侠団体山口組直参:新井孝寿(三代目古川組若頭・雅新会会長)

こっからはざっくばらんに行きますんで。うちは皆さんご存じの通り、六代目から神戸へ希望を持って参加した組織の一つとして、ありのままの現状をお話しますんで。現場の声いうことで。
まず始めに移籍当時、六代目側から約3カ月遅れでわが古川組として移籍したわけだが、当時、裏切り者だの風見だの言われました、いろいろと。その中で我々は神戸山口組というものの、大義ですね、金は吸い上げない、出所びいきしない、色々なことを聞いてこれは六代目とは違うと希望を持って移籍、並々ならぬ覚悟でみな行った。
実際、当初、うちとしては経費的なものはぐっと下がり、これはほんまやな、これは行ってよかったなと組員一同安堵した場面もあったが、実際、月日が経ってものを見ていくと、結局ふたを明けたらなにも変わりなかった。
今、説明しましたけども、まず内輪もめをしないで、敵は六代目の名古屋方式という中で、まさか夢にも当代の出身母体山健組の人が手前どもの枝の若いものがけがを負わされた。そのこと自身が耳を疑いました。
その流れの中でうちとしては断固抗議した。これは名古屋と花隈は違うと抗議したが、結局あっさりと当事者だけ破門ということで言い渡しがあり、済まされたわけです。
本来我々の世界で、当事者が逆でうちの古川の者が加害者であれば、当事者即刻絶縁、そこの親方何らかの処分、これは当たり前のこと。当たり前と思っていた裁定すら下されないという神戸山口組で、12月に移籍して去年の3月くらいの事件ですか、あれちょっと違うなと。
我々は後からの参加組ですが疑問をていしたところもありまして、その流れで飲むとこは飲みました。やはり相手は山健組。我々弱小は辛坊するとこは辛坊せなあかんのかなと。
結局なんやったのかなと思いながら月日が過ぎまして、またびっくりするような話が耳に飛び込んできたのが、破門されていた当事者がなんの承諾もなく、普通であれば我々の世界では、被害者である我々どもにお伺いを立てて了承をもうて、はじめて復縁状を撒いてというのが当たり前のこと。
これ一切なく、当事者が、これもうちのもんが探しあててきたんですけど、破門された組織へ何事もなかったかのように出入りをしていた。それを聞いたとき、間違えやと何らかの、神戸に関してそれはないやろというてる最中に次の一方が耳に入りまして。
なんやと言うとその組織の代目が山健組内で代わりまして、代目継承の盃の席に、これは嘘やろと思いましたけども、神戸山口組組長が後見人として列席し、そこに当事者がそれなりのポストをもらって盃を飲んでいたということを聞いて、正直耳を疑いましたし、理解しがたい。
正直な気持ちやっぱり6代目、神戸とうちはいろいろ渡り歩いて、結局当代の母体であれば何でもありなんやなと。結局、なんでも名古屋名古屋でした6代目の時は、名古屋通るから道あけですわ、結局神戸行っても山健やから道あけなあかんのかと。
うちはプラチナプラチナ言ってますけど、結局山健の枝の組織、そこ以下の扱いをされたわけで、名ばかりでプラチナやなかったんやと。組一同、この一件で、正直な話神戸に希望もって行って、3カ月この事件があり、今年の2月ですか、それから1年後、正直いうと希望は冷めた瞬間といいますか。こういうような現状なんですね。
だから古川としましても、新しい団体に希望を持って頑張って行くわけですから。内容的にはそんな感じです。

池田
まあ、最後に第三に、進言諌言を一切全く聞き入れなかったという事実をお伝えしておきます。みなさん、長いこと、本日はお集まりいただき、誠にありがとうございました。それとですね、任俠団体の俠、中の字は人です、俠友会さんの俠、ここだけは間違えないように。一方的な決意表明になりましたけど、よろしくお願いします。

新井
これ雑誌また見ますし、ちゃんと書いてくれた雑誌社はまたお受けします。

池田
そのままでお願いしますよ。もし、これに関しての聴き取りにくかったという部分は質疑応答はできませんが、担当を決めますので。ただその時に質問は勘弁してください。

新井
今日は言われんけども、組織名変更するところも出てきます。

池田
さっき言ったように、役とかについては後日。今日1回じゃないんで。これからも機会があればと思てますんで。

第二回記者会見 2017年8月27日 於:四代目真鍋組事務所

任侠山口組本部長:池田幸治(四代目真鍋組組長)

皆さん、お早う御座います。本日は御苦労様です。早速ながら、本題に入ります。
 本年四月三十日、任侠山口組結成記者会見において、神戸山口組の三つの改革案、その全てを、あえて伝えずに終わらせました。その結果、直後から神戸花隈サイドの、話のすり替え、嘘、捏造が広く世間に広がり、誤解と混乱を招き、我々任侠山口組と致しましては、腹に据えかね断腸の思いで、本日この場面に、臨む事に相成りました。
 我々が、残る二つについて、説明しなかったその理由は前回、【四人の大御所】と、ぼかしましたが、入江組長、寺岡会長、池田組長、正木組長という実名を公にする事を避ける為、もっと言えば、四名の中でも特に、寺岡氏、正木氏両名と、両組織の組員の、名誉を守る為のものでありました。
 そこで、三つの改革案の中身を含め、神戸山口組結成に至る経緯と、更には結成後から、任侠山口組結成に至るまでの経緯を併せて、本日初めてその真相を、ここに公表させて頂きます。
 まず初めに、奇しくも明日、八月二十八日に初代の命日を迎える、宅見組一門の組員の皆様の、誇りに関わる問題でありますので、その点から入らせて貰います。神戸山口組分裂直後から、井上組長自身の発言により、すり替わった噂話が、広く世間に流れました。それは、神戸山口組分裂・発足の首謀者は入江禎と他数名である。
 井上組長は上手に利用され、乗せられた。悪いのは、全て入江禎と他数名であるという、作り話が蔓延しました。真実は、全くの真逆で、井上組長こそ、首謀者であり、同時に長らく表と裏で自作自演を、演じ続けてきた張本人であります。
 最後まで、考え直すよう諭していたのは、他でもない入江組長であり、岡山池田組々長も、同様に諭したところ、『一人でも出る! 山健だけでもやる!』と頑として、聞かずに押し通したのが、井上組長でした。当初その気のない、入江組長を口説き落とす為に、動いたのは井上、寺岡両名と、井上組長の命を受けた剣氏と私、池田幸治です。六代目司組長、盪骸稙から目を掛けて貰い、何の恨み辛みもないはずの寺岡会長が、何故かこれは、未だに謎ですが、脳梗塞で倒れ、退院後に当時、井上組長がブロック長をしていた、阪神ブロックへ本家舎弟として、移籍してから、少しずつおかしくなりました。井上組長から、どんな話を持ち掛けられたのか、山口組離脱に向けて、井上組長の黒子・補佐役に徹するようになったのです。
 正木組長については、井上組長と比肩するほど、司・盪確礁召悗料しみ、恨み辛みを持つ人物で、六代目体制の約十年間、司・盪確礁召糧韜鄰羹をひたすら、井上組長に耳打ちし、かと思えば、六代目司組長に擦り寄り、ある日突然、六代目組長室々長に大抜擢され、さらに急遽、保釈で出て来た盪骸稙に軽んじられた末、僅か一年で辞任に追い込まれるという、誠にもって摩訶不思議な処世術で、未だ誰にも理解し難い御人です。
 剣氏については、総本部長補佐から、事務局次長当時に至るまで、本人なりに真面目に一生懸命頑張ったのですが、特に盪骸稙にきつく当たられ、井上・正木両名に最後のヤクザ人生を、賭けざるを得ないという、離脱理由でありました。
 斯く言う私、池田幸治は、真鍋組四代目継承時、健國会川田若頭並びに、岡山池田組高木若頭との御縁から、当時阪神ブロック長の井上組長と、岡山池田組長に、大変御世話になった感謝の気持ちと、更に岡山池田組長より『今後は、井上組長を兄親と思い、接するように。』とのご指導を受け、まる六年、忠誠を尽くさせて頂きました。当時、花隈の山健組本部と、隣接する山健会館には、六代目山口組の直参はほぼ寄り付かず、寄り付く者は、六代目山口組本家において、冷や飯扱いというのが定番という空気の中で、私なりに、盪骸稙に睨まれ、人前で叱責され、周りの兄弟分からは『花隈に近寄らない方がいいんじゃないか』と忠告して貰いながらも、週に三日、多い時には連日、呼ばれるたびに、その日の予定を、全てキャンセルしてでも飛んで行ったものです。
 まさに、我が親と思い、身体に井上邦雄の文字を、刺青として刻み込み、それこそ言われるがまま神戸山口組立ち上げまで、名古屋の目をかいくぐり、汚れ役は勿論、井上のスパイじゃないかと揶揄されながらも、この人の為ならと、身を粉にして働き続けました。今こうして事の真相を、公表せざるをえない、立場である我が身を思うと、心中複雑且つ、残念な思いであります。
 さて、要するに、神戸山口組分裂劇とは、敬称を略しますと、司、盪確礁召悗琉枉錣閉の、恨み辛みを共有する井上・正木は特別な間柄として、そこに寺岡が加わり、剣と私、池田幸治が加わる。最終、井上が岡山池田を【条件付き】で口説き、最後に井上をはじめ、皆で約一年がかりで、入江を口説き落としたという流れが真相であります。この条件とは、
一、 千日前(入江)が船に乗る事
二、 直参三十団体、少なくとも二十五団体が船に乗る事
三、 バラバラの山健組が一つに纏まる形を作る事
 と言うもので、それが出来るなら腰を上げて良いと、井上組長に宿題を与えた上で、岡山池田組長が了承したのです。
 さて、入江組長がようやく、覚悟を決め決断した時の言葉ですが、『初代から預かった、宅見組若い衆数百名の命運が掛かっている。今からやろうとしている事は、大変な事であるが、本当に山口組を正し、残し続ける為なのか? 又、我々、先の短い年寄りが、捨石となる覚悟で次の世代、その又、次の世代の為に、命懸けの革命を起こすぐらいの気持ちであるのか?』という意味の質問に対し、井上組長は『その通りです。神輿になって下さい。担がせて下さい。』と答え、入江組長は『それなら分かった、俺が担ぐ側にまわろう。』それに対し、井上組長は『有難う御座います。五年間、舎弟頭(入江)の言う通りに、組織運営させて貰います。』と返答。ところが、予定を急遽変更して、盃を交わした事から、これまでの六代目体制下における、上下関係が逆転した事により、井上組長の約十年間包み隠されていた本性が、徐々に表に出始めたのです。
 まず、組織の為を思い、的確に進言諌言する、入江組長の言葉に耳を傾けず、入江組長以上にストレートに進言諌言をする、岡山池田組長を遠ざけ、逆に茶坊主の如く甘言(これは悪い意味のカンゲン)を繰り返す正木組長と、右向け右の寺岡会長の二人だけを近づけ、常に三人だけでコソコソとやり続ける始末。その上、相変わらず、山健組々員びいきを繰り返し、山健組以外の、各組員に理不尽な思いをさせ続け、さらに神戸山口組の、会費を三十・二十・十万円として表向き世間を欺きながら、裏では山健組の会費とプラス、年八回の臨時徴収プラス、当時、約千人の組員から各一万円、合計毎月一千万円の吸い上げも止めない。他にも一つ一つ挙げれば、切が無いほどの悪政の数々の中で、一昨年、八月二十七日名古屋方式を、真っ向から否定して神戸山口組が立ち上がったにも関わらず、神戸山口組への熱い思いと、責任感という心ある者の気持ちを、ズタズタにし、日を追うに連れ、組織全体の志気低下を招くに至ったのです。
 本来ならば当初、盃無しの連合体を、予定していましたが、急遽八月二十七日未明、日付変更と同時に、神戸市北区鈴蘭台、井上組長本宅にて、盃を挙行し、僅か数ヵ月後『盃を交わした事が、失敗であった』という声が出始め、つまりは、盃を下ろした側の、井上組長による数々の悪政が、始まった訳であります。
 入江 寺岡 池田 正木(四名の大御所)が、このままでは、神戸山口組は沈む。しかし、かといって、多くの若い者を、巻き込んだその責任から一年足らずで神戸山口組から、脱退する訳にはいかない。神戸山口組の組織内部を、改革するしか手はない。この四人の大御所が、ミーティングを重ね、出した答えが三つの改革案だったのです。ここで、第一回目の記者会見で、三つの内、一つしかお伝えしなかった改革案の内容を、全てご説明致します。
一、 井上組長に神戸山口組本家親分に専念して貰う。※(山健組を五代目体制にして、名実共に神戸山口組の下部団体とする。)
二、 織田代行に山健組副組長兼任を外れて貰い、山健色を消した上で、神戸山口組若頭代行から、のちに若頭に就任して貰う。※(その際山健組から少なくとも、織田一門を織田代行に付け、活動をしやすくして貰う。)
三、 山健組の跡目については、内政干渉となる為、中田でも良いが、一つに纏まらないのは、明らかなので四分割ないし、織田一門を合わせると五分割とし、新たに四名を神戸山口組の、直参に昇格させる事で、中田五代目の盃は飲まないと、反発する多くの山健組直参組員の、それぞれの意志を尊重してやり、五つの中から好きな組織を、選ばして上げる事で、神戸山口組という船から降りる者が、一人でも少なくなるようにする。
 さて次に、この三つの改革案を、先に触れた四名の大御所を代表して、寺岡若頭が井上組長に、進言する事が決定しました。その日時は、神戸山口組結成一周年にあたる、八月二十七日から九月五日の間となったのです。
 その前に、三つの改革案の中の一つに、織田代行の名前が、挙がっていた為、寺岡若頭が『代行、胆を確かめたい。』と織田代行に、三つの改革案全てを話した上で、『代行、組長と若頭が山健、山健なったら名古屋と同じ事になる。山健から出て、神戸の若頭を交代して欲しい。俺も限界やねん。もう年やから。これは俺一人の考えと違うから。四人の総意やねん。四人共、代行しかおらんと、代行に託しとるから。正木の兄弟も、代行に賭ける言うてるねん。本間やで。』※(寺岡氏が正木氏の名をあえて挙げたのは当時、古川組内権太会組員が、山健組内健國会組員に、重傷を負わされた件で、まず井上組長と織田代行が衝突し、その際、古川組後見役の正木氏が、山健組の肩を持った事から、織田、正木両名の間に深い溝が出来、その頃から関係が悪化していた事を、寺岡氏が察知していた為である。だからこそ、その正木氏ですら織田代行に、神戸を託すと発言しているのだと、付け加えたのである。)※
 寺岡若頭の問い掛けに、織田代行は『そうそうたる叔父さん方々のお言葉、男冥利です。山健から出て、神戸に専念して頑張ります。但し、自分はまだ四十九の若造です。カシラはカシラのままでドンと座っておって下さい。自分は、これまで通り代行の方が、動き易いですし、西(侠道会)との外交の件もありますから。』と返答したのです。
 当初、寺岡若頭は、我が身の進退を賭けてでも、井上組長に承諾して貰うと、公言していました。ところが、四名の大御所の中の一人、正木総本部長が寺岡若頭が、進言するその前に、三つの改革案の内容を、独断で井上組長へチンコロ。それが、昨年八月二十日から二十三日位の出来事であり、それから例のサイン事件までの、約十日間で神戸山口組にとって最悪且つ絶望の、出来事が三度連続して起こったのです。
 まず一つ目は、黒誠会 剣会長と、私、池田幸治への暴言の数々。
 二つ目は、井上組長自ら、淡路島の俠友会本部事務所に乗り込み、寺岡若頭に対して『あれもこれも言うなら組長降りる。カシラ、組長代わってくれ。』発言。山健組抜きでやれるものなら、やってみろという脅しに、残念ながら寺岡若頭は屈してしまう。
 三つ目、これが正にとどめとなったのですが、前代未聞の、サイン下さい事件を密かに愚行する。
 さて、一つ目の黒誠会会長及び、私、池田幸治への暴言についてですが、これは正木総本部長が、井上組長へチンコロした、翌日ないし翌々日、つまり昨年八月二十四日から二十五日あたりの出来事で、場所は花隈の、山健会館ビル三階の大会議室。メンバーは、当時の役職で言いますと、井上組長、正木総本部長、毛利本部長、太田舎弟頭補佐、そして当事者である、剣若頭補佐、私、池田若頭補佐。この時、皆で雑談をする最中、いきなり井上組長が『おい真鍋、お前、何笑ろとんや!』から始まり、『おい剣、お前、何ふてくされとんや! 植野(兼一会々長)の件が、気にいらんのかい! 植野は、わしの若い衆や! お前、植野の代わり出来るんかい!』そして、それを見ていた毛利本部長は、言葉無く絶句し、唯一、太田舎弟頭補佐のみ『親分、何を言うてまんねん。二人共、全国周って一生懸命頑張ってまんがな。』と救いの言葉を、投げ掛けてくれたのです。正木総本部長は、役職柄、太田舎弟頭補佐以上に、かばうと思いきや逆に、毛利、太田両名を会議室から外へ連れ出し、何と正木本人も、外へ出て行ってしまったのです。残された黒誠、私の両名は、そこから約三十分間、暴言等という次元を、遥かに超える罵倒を受け、ヤクザとしての心が折れる程、罵り続けられたのです。そして最後に、『誰が頼んだんや! お前らが神輿になってくれ言うたんちゃうんかい! お前らが担いだんやろ! 何やったら、代わったるど! 剣、お前今日から神戸の組長せえ!』とわめき散らすという悪態を、さらしました。この時の、兼一会植野と、黒誠とのトラブルは、約一ヶ月も前に手仕舞いしておりました。しかも、植野に非があるにも関わらず、黒誠が辛抱する事で、植野は一切の処分もなく終わった話だったのです。それを蒸し返した訳です。
 次に、黒誠、私への暴言の翌日、八月二十六日から二十七日頃に、今度は井上組長自ら、俠友会本部へ乗り込み、三つの改革案を想定して『あれもこれも言うなら組長降りる。カシラ、組長代わってくれ。』という脅しを含めた、二度目の悪態をさらし、この日の内容を寺岡若頭から聞いた、大御所の方々は口々に、『剣と真鍋の件も、組長降りる件も遠回しに、わし等に言うとるんや。改革したないんやったら、好きにさせ。もうええ。』と呆れ果ててしまいました。
 そして、最後にとどめとなる、前代未聞のサイン下さい事件が、その数日後の九月五日に起こってしまったのです。
 サイン事件の狙いと目的は、大きく分けると二つあり、一つは、当時、織田代行が汗をかき、進めていた二つの山口組を一つにするという流れを潰す為。
 もう一つは、織田代行にサイン事件の責任を擦り付け、織田代行のそれまでの、評価を落とす為。
 要するに、四名の大御所が出した、三つの改革案の三つ共が気に入らず、山健組利権を手放したくないのは勿論の事、中でも『織田を若頭に』『神戸山口組は織田に託す』と皆が織田、織田と連呼し、本来我が子が組織の内外から認められれば、喜んで見せるのが、親分のあるべき姿でありますが、逆に嫉妬し焼もちを焼き、猜疑心の塊となるのが、井上組長の隠された本性であり、その上いかに織田のあたまを押さえつけようかと少数の者と密談し、企み、更に、それをいつも見事に実行に移すのが、井上組長のこれまでの長年のやり方であります。それが証拠に、サイン事件の直後から『親分、あんな恥ずかしい事誰がやらせたんですか!』と、あちこちから連絡が入るその度に『俺は知らん! 誰やろか? 織田やろか?』と皆に返答し続けるという我々凡人の想像を絶する、二度とお目に掛かれぬ御人です。
 暫くは、四人の大御所(正確には正木を除く)も絶望の中、『神戸の船が沈んでも、仕方ないがな』と、半分投げやりな思いでいましたが、それから約一ヵ月後の十月に入り、再度、入江副長が音頭を取り、『三つが嫌と言うなら、一つずつ改革を進めて行こうじゃないか』と他の三名に呼び掛け、再度、改革案の話し合いの場を持ち、結論として、三つの内の一つ、織田代行に兼任を外れて貰い、先程、お話した通り神戸山口組に、専念して貰おうとなったのです。
 十月上旬、四人を代表して寺岡若頭が、井上組長に進言。すると、前回とは打って変わってすんなりと、井上組長が快く了承。ところが、『織田一門は渡さない。』『十一団体の内、半分の五・六団体なら渡しても良い。』暫くすると、『やっぱり二・三団体にしてくれ。』さらに暫くすると、『やっぱり百から百五十人位にしてくれ。』正木氏を除く三人の大御所は呆れ果てたが、当人である織田代行は、それ以上に呆れ、最後の最後には、邦道連合一社で良いと、返答するに至りました。
 それでも、ズルズルと決断をしない井上組長に、入江副長、池田舎弟頭の両名が、早くするようにと再三再四頼むと、井上組長のその都度の返答は、
一回目、十二月十三日の納会までには
二回目、年明け早々には
三回目、入江副長が退院したら(二月頃)
四回目、桜が咲く頃には
 結果、ダラダラといつもの様に優柔不断で、決断出来ず仕舞いとなり、とうとう四月三十日任侠山口組結成に至ったのです。
 その道中、入江副長の主張する旨は、『寺岡を降格という形にしてはならない。尾道(侠道会)を始め、中国五社会との今後の外交上良くない。俺の座布団(副組長)に座らせれば良い。又は、俺の上座の組長代行にするのも良い。神戸山口組の改革が出来るなら、俺は舎弟でも顧問でも何でも良い。織田に最低でも織田一門を付けて、力を付けさせ、若頭とし任せれば良い。神戸山口組が勝つ為にはそれしかない。』
 又、池田舎弟頭の主張する旨は、『寺岡が一周年の八月二十七日、織田と若頭を代わって欲しいと言うが、それは良い。但し、又、織田に山健組改革当時と同様の憎まれ役、嫌われ役をさすつもりか? カシラ(寺岡)が、前に立ち、三つの改革をやり遂げ、綺麗に掃除をした上で、織田に若頭のバトンを渡してやれ。それが一家の若頭の務めであり、若い者を育てる我々年寄りの、務めじゃないのか。』と言う内容でありました。
 最後に、任侠山口組結成後について、二・三触れておきますと、井上組長自身の口から、信じ難い言葉の数々が次々と発信され、井上組長のその隠された、裏の人間性を残念ながら、再確認せざるを得ない現状であります。いくつか例を挙げますと、織田を殺る、織田を殺ると感情を、剥き出しにした上で、
一、 司から十億貰っている
一、 岡山池田から五億貰っている
一、 山健の跡目が取れないから出ただけで、俺は何も悪くない
一、 『織田は絶縁者だから一切付き合いしてくれるな。』と、あちこちの他団体に、井上組長自ら連絡。しかし、よくよく考えると、井上組長自身も絶縁者なので、お願いされた他団体も困惑する。
 結論として要約すれば、一昨年八月二十七日に挙行した神戸山口組立ち上げは、山口組史上類を見ない【大型分裂詐欺事件】であったという事です。大義も志もない上に立ってはならない人物が、上に立ってしまった事により、多数の者が命を落とし、多数の遺族が悲しみ、多数の侠達が今現在も逮捕、拘留されるに至るという、取り返しのつかない悲劇が日本全国で起きてしまったのです。
 昨年九月五日に巻き起こされた、新神戸駅構内においてのサイン下さい事件によって、物の見事に潰された、【山口組再統一への道】を、我ら任侠山口組が絶望の中から再度立ち上がり、不可能を可能にするべく、真の任侠団体、真の山口組を再構築する為にも、今後とも茨の道を歩み続ける覚悟であります。
 長らくの御静聴痛み入ります。本日は、ご苦労様でした。
 尚、本日以降、神戸花隈サイドの、対応によっては、記者会見第三段の場を設け、再度、正々堂々と真正面から受けて立つ。次回は、四代目山健組十二年間の、使途不明金数十億円問題と、花隈本部周辺で買占められた、広大な土地の現状、今後の計画等々、これまで山盛り隠蔽されて来た悪事、悪政の数々を公表したい。但し、神戸花隈サイド、特に発信源である井上、正木両氏が今後一切、陰湿で姑息で女々しい嘘、捏造、作り話の発信を止めるというなら、我々、任侠山口組の神戸山口組へ向けての、公式記者会見は、本日限りで打ち切りたい。

以上

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